日本手話学会第26回大会(2000/6/24-25) 予稿集 pp.8-11
日本手話におけるロールシフト
小薗江 聡・木村晴美・芳仲愛子・市田泰弘
(国立身体障害者リハビリテーションセンター学院)
はじめに
手話言語におけるロールシフトとは、話者が現在の話者以外の他者(過去/未来の話者も含む)の役割を演じることである。その時、話者の非手指動作、すなわち、表情、視線、上体の動きは、それぞれ他者の表情、視線、身体動作を表している。ロールシフトは、手話言語の文法構造において、きわめて重要な役割を果たしているが、詳細な分析はなされていない。本論では、ロールシフトの詳細な分析のための枠組みを提示したい。
ロールシフトの二大類型──行動型と引用型
ロールシフトには大きく分けて、「行動型」と「引用型」がある。行動型は述語句レベル、引用型は節レベルのロールシフトである(以下、表を参照)。
行動型の分類──動作主系・対象系・相互系
行動型は、手指が表す述語の動作主と話者の身体が演じる役割との関係から、3種類に分けられる。それらをそれぞれ、動作主系、対象系、相互系と呼ぶことにする。動作主系では、手指述語の動作主と話者の身体が演じる役割が同一である。対象系では、手指述語の動作主と話者の身体が演じる役割が異なる。相互系は両者の複合型で、手指述語は両手を用いる。
CL述語の例で説明するなら、「私が座る」が動作主系、「隣に誰かが座る」が対象系(話者の身体はCL述語が表す動作を知覚する者──「誰かが座るのを見る人物」であって、動作主ではない)、「誰かと隣り合って座る」が相互系である。CL述語に抱合された名詞が乗り物の場合は、動作主系では乗り物に乗った人物を演じることができる(例:「電車に乗っていく」)。
一致動詞の例では、「彼に言う」([φ-言う-4])は動作主系であるが、「彼が言う=彼の話を聞く」([4-反転-言う])では対象系(「言う」の動作主とロールシフトが担う「話を見る(聞く)」主体は別人物である。一種の複合動詞である)、「彼と話す」([φ-相互-言う-4])では相互系となる。
視線の分類──「見る」「考える」「見ていない」
ロールシフト時の視線も、その表す意味によって3種類に分けられる。「見る」「考える」「見ていない」である。さらに、「見る」視線は、視線の先、あるいは視線の主の役割によって、「相手への視線」「対象への視線」「随意項の/への視線」の3種類に分けられる。
動作主系と視線
(1)「相手への視線」
三項動詞の間接目的語の表示である。一致動詞の順向形式に現れる。
(2)「対象への視線」
他動詞の目的語の表示である。
(3)「随意項への視線」
「随意項への視線」は、その視線によって、必須項ではない項が付加される場合をさす。例えば、「食べる」という動詞の必須項が「食べる人」「食べるもの」であるのに対して、「テレビ」や「母」などを、視線が表示する場合である。この場合、厳密にいえば「テレビ」は「食べる」という述語の項になるわけでなく、[食べる]と複合した動詞「見る」の目的語表示であるが、便宜上、ここに含める。「母」についても同様の解釈も可能である(「母を見ながら食べる」)が、「迷惑」などの非手指副詞を伴った場合には、「母」を使役者とする使役受動(「母に食べさせられる」)にあたるとみなしてよいだろう。[あわてる]の場合は必須項が一つの自動詞であるのが、「あわてる」という状態をもたらす原因(使役者)を視線が表示することによって、構造としては「あわてさせられる」という使役受動になる。
(4)「考える視線」
「考える視線」の場合も、2種類の述語構造がある。まず、手指述語自体が「考える」あるいは「感じる」という意味を内包している場合がある(例:[考える](思考動詞)、[聞く](知覚動詞)、[痛い](感覚形容詞))。それに対して、考える視線が「考える」という動詞として、手指述語と複合動詞を形成する例がある(例:[食べる](「考えながら食べる」または「味わう」)。
(5)「見ていない視線」
「見ていない視線」は、非手指副詞や、「食べようとしたら」というようなアスペクト表示(「起動相」)に関わって用いられる。対象系と視線
(1)「相手への視線」
一致動詞の反転形式に現れる。
(2)「対象への視線」
存在動詞([ある])や運搬動詞([運ばれてくる])の対象の表示である。[訪ねてくる]のような移動動詞の場合は、移動動詞の動作主が移動先の人物の知覚の対象になっていて、これも複合動詞であり、他の二つの述語とはやや異なるが、便宜上ここに含める。
(3)「随意項の視線」
動作主系では「随意項への視線」、すなわち視線の先に随意項が表示されたが、対象系は「随意項の視線」、すなわち視線の主の側に随意項が現れる。「死ぬ」という動詞は必須項が一つの自動詞であるが、視線が伴うことによって、視線の主として「受益者(被害者)」が立ち現れる。これはいわゆる「間接受動」である。同様の例には「雨に降られる」「子どもに泣かれる」などがある。「盗む」などの他動詞の場合にも、視線が伴うことで、盗まれたものの持ち主の項が「受益者(被害者)」として付加される(「自転車を盗まれる」。cf.「自転車が盗まれる」)。「随意項の視線」にはそのほか、「比較の基準」を付加するもの(「彼は私よりも背が高い」。cf.「彼は背が高い」)、「性質や感情を様態としてとらえる判断の主体」を付加するもの(「おいしそう」「重そう」「さびしそう」など)がある。
(4)「考える視線」
「考える視線」を伴うと、手指述語と「思考」や「知覚」の複合動詞になる(「刺される」「批判される」)。
(5)「見ていない視線」
「見ていない視線」を伴うと、手指述語によって表された出来事に「気づかない」という意味を付加する複合動詞となる(「知らないうちに見られる」「隣に座ったことに気づかない」)。引用型ロールシフトと視線
行動型ロールシフトでは視線と共起するのは述語であるが、引用型ロールシフトで視線と共起するのは引用内容である。引用型にも、行動型同様、「見る」「考える」「見ていない」の3種類の視線があり、さらに、「見る視線」には、「相手」のほかに「対象」がある。
(1)「相手への視線」
会話の相手への視線であり、引用内容は会話の内容である。ここでは「会話引用」と呼ぶ。いわゆる「直接話法」というものに近い。引用節だけでは文は完結せず、後ろに引用動詞(例:[言う][話す][へえ])や、「判断引用」(後述)などが必要である。「会話引用」と対になってよく用いられるものに、直前の引用内容を繰り返したり(「朝ご飯いらないよ」に対して「いらないの?」など)、反応語を引用したり(「朝ご飯いらないよ」に対して「本当?」など)する「反応引用」がある(手指の反応語を伴わない場合もある)。「反応引用」で引用された内容は、実際には会話として発せられていない場合も多い。「反応引用」を単独で用いて、実際には他者の発話であるものを、反応という形で表現する用法もある(「朝ご飯いらないの?」=本当は話し相手が「朝ご飯いらない」と言ったという場合)。これは「会話引用〜反応引用」という連続の省略形であるとも考えられる。
(2)「対象への視線」
会話の相手ではなく、対象(目の前の事態)への視線を伴うと、引用内容は独白に近くなる(例:朝ご飯を食べずに出かけた客人を見送って「朝ご飯いらないんだ……」)。ここでは「独白引用」と呼ぶことにする。
(3)「考える視線」
「考える視線」を伴うと、引用内容は思考の内容となる(「朝ご飯食べないってこと?」)。ここでは「思考引用」と呼ぶ。会話引用同様、引用節だけでは文は完結せず、後ろに思考動詞(例:[思う])や「判断引用」などが必要である。
(4)「見ていない視線」
「見ていない視線」を伴うと、会話・独白・思考を受けての最終的な判断内容が引用内容となる(「朝ご飯食べないってことか……なんだ/なるほど」)。このタイプの引用を、ここでは「判断引用」と呼ぶ。この判断引用は、日本手話の文法の中できわめて重要な役割を果たしている。前述したように、その他の引用節から文を完結したり、次の文へ接続したりする場合に、この判断引用が用いられる。その場合、特定の語([なんだ][なるほど][かまわない][わかる][OK]など)が使用される(手指語彙を伴わない場合もある)。おわりに
本論では、ロールシフトの詳細な分析のための枠組みを提示した。今後、この枠組みを適宜修正しながら、より詳細な分析を進めていきたいと思う。
表(当日OHP提示の訂正版)
行動型ロールシフト
引用型ロールシフト
動作主系 対象系 相互系 見る
相手への視線 話す/教える
(一致動詞順向形式)話される/教わる
(一致動詞反転形式)話す/相談する
(一致動詞相互形式)「朝ご飯いらないよ」
(会話引用)
「朝ご飯いらないの?」
(反応引用)そ
れ
以
外
の
視
線対象への
視線食る/勉強する
(他動詞)訪ねてくる(移動動詞)
ケーキが運ばれてくる
(運搬動詞)
*ある/ない(存在動詞)―
「朝ご飯いらないんだ…」
(独白引用)随意項の
/への
視線母に食べさせられる
(使役受動)
あわてる=あわてさせられる(使役受動)
*テレビを見ながら食べる
(複合動詞)父に死なれる/自転車を盗まれる(間接受動)
背が高い/金持ち
(比較)
おいしそう/ 重そう
(様態考える
味わう(複合動詞)
考える(思考動詞)
聞く(知覚動詞)
痛い(感覚形容詞)刺される(複合動詞)
批判される(複合動詞)― 「朝ご飯いらないってこと?」
(思考引用)見ていない 食べる/勉強する
(非手指副詞)
食べようとしたら
(起動相)知らないうちに見られる
隣に座ったことに気づかない(非手指副詞/複合動詞)― 「なんだ/なるほど」
(判断引用)
(日本手話学会第26回大会予稿集より)
※表は当日OHP提示の訂正版