日本手話の概要
基本情報
日本手話は日本に住むろう者によって話されている手話言語である。日本にろう学校が設立された1878年以降にクレオールとして誕生したと考えられる。母語話者人口は約6万人程度と推測される。家庭での伝承は例外的(ろうの両親のもとに生まれるろう児は10%程度)で、おもにろう学校の児童コミュニティを通じて伝承されてきた。昭和40年代以降ろう学校の生徒数の減少によって伝承コミュニティの基盤がゆらいでおり、母語話者数は減少傾向にある。地域方言はあるが、共通語がある程度形成されており、相互理解度は比較的高い。
社会言語学的情報
ろう学校において日本手話が児童の母語および教育言語として正当な地位を与えられたことは歴史を通じてほとんどない。ろう学校では日本手話を排除する口話主義によって日本語の口話(発語と読話)と正書法の教育が行われており、日本手話母語話者は程度の差はあれ基本的に日本語とのバイリンガルとなる。口話主義教育のもとでは高度な日本語運用能力を習得できるケースはあまり多くなく、仮に習得したとしても口話は制限された手段であるため、ろう家庭や児童コミュニティを通じて母語として習得された日本手話の使用が放棄されることはほとんどない。口話の補助手段として日本手話の語彙や文法の一部を借用したコミュニケーション様式が存在し、非母語話者を含む場面においてリンガフランカとして機能している(一般に「日本語対応手話」と呼ばれている)。1990年代に入るまでは、私的場面と公的場面による日本手話と日本語対応手話の使い分け(ダイグロシア;diglossia)が厳然として存在していた。現在でも相手や内容によるコードスイッチングやコードミキシングは一般的である。メディアや教育においては、この両者が混同されていることが少なくないので、注意が必要である。
他の手話言語との関係
欧米の手話言語はその歴史的経緯から系統関係が認められることが多いが、日本手話は日本で独自に生まれたものである。なお、植民地支配時代に日本が韓国と台湾にろう学校を設立した関係で、韓国手話と台湾手話は日本手話と語彙の共通性が高く、日本手話語族とされる。手話言語は一般にその地域で話されている音声言語およびその正書法から語彙を借用するためのシステムを発達させる。指文字はその代表であり、ラテン文字借用のための指文字は広く欧米に伝播している。日本のかな文字借用のための指文字は独自のものだが、一部にラテン指文字の借用がみられる。また、漢字使用圏では漢字借用のためのシステムも発達するが、日本手話のそれは他の漢字圏、たとえば中国手話のものとは関係がない。手話言語同士の言語接触については、とくに発展途上国などでは複雑な状況を生んでいるが、日本手話は他の手話言語の影響をほとんど受けていない。
正書法および表記法
世界中の手話言語は正書法をもたない。日本手話も例外ではない。言語研究のための表記法としては複数提案されているが一般的ではない。近年は論文に動画を添付することも行われている。文法記述のためには、グロスに非手指標識(NMM; non-manual markers)を追記する簡易表記法が用いられることが多い。本サイトでもそのような簡易表記法を用いる。
先行研究
日本手話の文法の総合的な記述に関する先行研究としては、米川(1984)がほぼ唯一のものといってよい。必ずしも言語学によらないものとしては、松本(2001)がある。また、図像性の観点からの記述としてIchida(2010)がある。概略的・断片的な記述としては、市田(1991、1994、1998、2001、2003、2004、2005)などがある。しかし、通言語的な視点をもち、類型論的な関心に応えられるような記述はまだ存在しない。その他、入門的文法概説書としては岡・赤堀(2011)、基本文法の記述を含む語学学習入門書としては木村・市田(1995; 2014)がある。
次ページ:音韻論の概略